cheeky squirrel’s diary

隙あらば怠惰、夢見る臆病者、けれど人生を諦めたくない私の北米生活日記。むむぅ~!                                 🔦当サイト内の画像、文章などの無断転載及び複製などの行為は違法です。

変化と、諦めないために

今までのブログタイトルをさらっと見るだけでも、
なんだかあの時は疲れていたんだと思う。

今振り返ると、いろいろなことに気を使って、心休めていなかった。

あれから、生活がガラッと変わって、心が安定してきた。
「こんなことがあったらいいな~」って仕事とトラブル解決と引っ越しに追われていた時にぼんやり願っていたことが、突然現実になった。
ここまで頑張ってきて、新しいステージに上らせてもらったみたいだ。
仏さまに感謝。

だからこそ、気づいた。
自分の英語力。特に、発音の重要さ、白人英語の長い会話の聞き取り、伴う語彙力。全部じゃん!

ここに来た当初に比べると、リスニングも会話の瞬発力も
上がったと思う。
電話で商品問い合わせ、病院などの予約、診察での会話とかにも慣れてきた。(病院に行き過ぎたのもある。)
最初はこれらも おっかなかったわ…。

しかし、現地白人に更に囲まれて、その中で外国人が自分一人
という状況になると、自分の能力の低さが悲しい。
言いたいことは伝えられているんだけど、やっぱり私のは第二言語としての英語レベルだ。フレーズやらはネイティブと同じことが言えても、何か説明するときや深いテーマの話で意見を言いたいとき、、、一生懸命組み立てた英語ですって感じ…。
特に、50台以上の男性になると、何を言っているのかさえ分からないときがあって、
頓珍漢な答えをしては、場が覚めてしまうこともある。

何よりも、「この子、あまり話せないんだ!」っていう目線…辛い!悲しい!
そんなレッテルを張られちゃうと、向こうからも話しかけづらくなるのが
わかる。。。。。そんな思いをさせてしまっていることも、申し訳ない
私自身、もう子供でもないので、間違えるということが”みっともない”って思ってる。
わかったふりして改善しない自分が一番みっともないぞ!!
言語学習は失敗する価値がある」
ベルギーの友だちの言葉。彼は私よりも年上だが、学習言語を話すことをやめない。
私も、みっともないプライドをとって、
「ごめん!全然わかんなかった!もう一回言って!」って頭下げて向き合っていくぞ。
溜息つかれたって、哀れまれたって、いいじゃないか~!



こんな私で終わりたくない!
前より生活が安定してきた分、英語をどうにかしたいと考えられる心の余裕ができたことを表している。自分を見つめなおして、ちゃんと勉強する。

自分のため、周りと楽しくコミュニケーションするために!
Never too late!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!




寂しさと孤独に襲われているとき

外国生活をしている人は、必ずある事だと思う。
唐突に、孤独に襲われたり、ふと懐かしい母国での思い出が過ったりして、
悲しみに突っ伏してしまう。

父親が突然倒れてしまった人
仕事を失って、あしたの食べ物を心配しなければいけない人
突然の交通事故で、車に下敷きになるバイクの人
家主と揉めて、家を出て行かなければいけない人
学校で必要な鉛筆や道具が買えない人、子ども
自然災害で愛する人の死の知らせを電話で聞かなければいけなかった人
宗教的な原因で迫害を受けている人
何もしていないのに、空から爆弾が落ちてくる環境の人
今までの歴史の中で、虐殺された人、虐殺しなければいけなかった人
人種や性で差別を受けている人
心の病気で自死を選んだ人
薬を飲み間違えて亡くなった人
高い地位に就いていたけど、晩年は寂しくなくなった人
依存から抜け出せない人
世間の何かに押しつぶされている人

書き出したらキリがないけど、たくさんいらっしゃる

私の悩みなんて、ちっぽけだとおもう。
そのちっぽけな悩みでも、孤独を感じる。懐かしい母国に帰りたいと思う。


みんな、辛いこと、たくさんあるね。

本当に、私たちはよく生きている。とても頑張っている。

普段、仕事で接する人も、周りにいる人も、みんな悩みや苦しみがあるんだよな。

消して見せないし、気丈に振る舞うことが大人だから、そんな思惟、忘れちゃうけど。

問題を抱えながら生きている人間たち。

苦しみの中にある世界中の人たちに、少しでも変化があるといい。
みんなの心が少しでも癒されてほしい。

私は何もできない、その人たちに何もできない、でも祈っている。


苦しんでる人が少なくなればいいと思う
地球儀に浮いている地の人、全員の苦しみがなくなればいい。
辛い時に、気にかけてくれる人、大丈夫だよと言っていくれる人
抱きしめてくれる人が、いてほしい。



そうやって、祈る。

あのとき、私は死にたかった。

体調を崩している。
「ここで、死ぬのかな。まだ死にたくないな。」。
そう思えるようになった自分に、驚いた。

20代や、もっと若い年齢で、人生に絶望したり、
孤独、虚無感、生きる意味を失っている人はたくさんいると思う。
私もそうだった。そんなとき、鬱病克服の本や海外へ飛んだ方のブログやらを読んでいた。自分の人生は終わった、と思う反面、何とか生きる希望を掴みたかったんだと思う。



ここに来る前、辛かった。
出勤中、「今この車道に飛び出したら一瞬で死ねるのかな」と当たり前のように考えたり、仕事帰りの田園都市線、車窓に縁どられたネオンの夜をを虚ろに眺めていると、ふいに涙がたらたらと流れることがよくあった。食べ物を胃に入れることもしんどくて、1か月で10キロも痩せた。貧相にも、タイトスカートがぶかぶかになった。突然、手足が震えはじめ、職場での指示も10秒後には思い出せず、とうとう出勤の朝、ベッドから体が起こせなくなった。”起きたくない”ではなく、起きようと思っても、体が動かせなくなってしまっていた。
診断結果は自律神経失調と鬱病だった。
まさか、自分が鬱病になるなんて、思ってもいなかった。


本音を言うと、自分が病に服す前まで、「鬱病」というのは怠惰な人にとっての恰好の言い訳に過ぎないと、心のどこかで否定していた。
多忙な時期なんて「私だって鬱病って言って休みたい!」と歪んだ駄々を捏ねていた。


主観が過ぎる勘違いをしていた自分が恥ずかしい。
鬱病は怠けの言い訳ではなく、脳組織と精神を崩壊させる恐ろしい病気だ。
「マジ、鬱~」なんて言えるうちは、大丈夫、健康。

まるで、這い上がる事の出来ないこの世の地獄を彷徨い続けている毎日だった。
自分だけが”絶望”という闇のシャボン玉に入って、周囲の人間が生きる”普通”という光に満ちた世界に、孤独に浮かんでいるみたいな、そんな感覚だった。
すぐ隣に、”普通”があるのに、もう私にはそれを手に入れられないんだと思うと、”普通”に生きている人間らを見るのが辛かった。
電車に乗ろうとすると過呼吸になり、ストレスで過食、肌もザラザラに荒れていった。
変わり果てた自分が見られるのも嫌で、どんどん引きこもるようになった。
トイレ以外は四六時中ソファに寝転がり、天井は穴が開きそうなほど見つめた。突然ヒステリーを起こして、泣き叫んだりした。
「一生懸命生きてきたのに、なんで自分だけがこんな人生になるんだ。」


当時、仕事はやりがいはあれど、薄給激務。
仕事で正当な評価が得られない事、貢献すればするほど損をするような給与体制だった。本当に、文句言わず、よくやったよな…。
平日は朝の3時、ときには朝6時まで仕事。仮眠を取って職場に戻る。土日も自宅で仕事。
残業代やボーナスは、一切無し。同年代は次々に辞めていく。
私も辞めたかったが、経験やスキルを向上させたいため、すぐに辞めるわけにはいかないと、忍耐していた。


そんなとき、とある女性からお茶の誘いがあった。
彼女の言葉が、私の自己否定観と社会への息苦しさとを強く腹の底に残し、鬱病中、何度も私の首を絞めた。

「いいかげん、そんなアルバイトみたいな仕事やめて、安定した仕事に就いたらどうなの?結婚もちゃんと考えて、両親に孫の顔を見せてあげないと。そういうのが、大人になっていくってことでしょう?いつまで子供なの? 理想主義みたいなことを言ってないで、現実を見なさい。もうあなたの両親も若くないのよ。」

びっくりして、言葉が出なかった。きょとん、としてしまった。
この人は、なんで私にこんなことを言うのだろうか。アルバイトみたいな仕事?え?私のことをよく知りもしないで、どうしてこんな説教ができるのか。

その後も、彼女は大声で私を叱り続け、最後に、この一言を怒鳴り散らした。
「もう、夢を見るな!って言ってるの!!!!」 

私は泣いてしまったんだ。あの時の私は、今よりうんと若くて、冷静になれなかった。
ただ突然に、大声で説教されたものだから、泣いてしまった。


いや、それだけじゃないな。彼女のプロファイルも大きい。
キャリアウーマンで高収入、私と同年代の娘さんが孫を産んだばかり。仕事、お金、家族、全てを手に入れた社会的成功者だ。(この言い方嫌いだけど)


当時から、このようなタイプの人が苦手であり、でも社会的成功者かつ年上というだけで、彼らの発言や思考はおそらく正しくて、結局は従わざるを得ないと若く弱い私は思っていた。

「そうですね。大人にならないといけませんね。ごめんなさい。」
泣きながら私はこんなことを言ったと思う。

でも実は、このとき混沌としていて、謝る必要があるのかわからなかった。彼女の言っていることに「?」ばかり浮かんだ。
『安定した仕事、結婚、子ども』、もちろんこれが幸せと思う人はいるだろう。でも、これが『大人になる必要不可欠な要素』なのか?
ただ、真正面から自分を否定され、怒鳴られたことが悲しかった。だから、泣いたんだと思う。

社会的成功者に言われた言葉=正しいと思わなくては!という当時の思考回路により、
よくわかんないけど、自分はダメ人間なのか。一生懸命やってるのに、アルバイトって思われてるのか。もう人生に夢を見てはいけない年齢なんだ。虚無と絶望が襲った。


当時の私は自分というものが今よりもっと曖昧で、他者の言葉に影響を受けやすく、「それは違うのでは?」と思うことも、社会、規範、常識、伝統などもろもろにねじ伏せられて、理解できなまま呑み込んでいた気がする。苦しかった。
鬱病中も、何度もその言葉が私を暗闇に引きづり落とした。「社会不適合者」というお札を貼られて二度と世間には出て行かれない気分だった。


幸運にも、両親の理解、鬱病経験者の友だちからの優しさ、カウンセリングや栄養療法などを受けて、少しづつ回復していった。
学んだこともあった。もっと人に対して優しい眼差しを持てるようになった。自分を無意識に責める心癖を認めた。完璧じゃなくてもいい、不完全でも優しくしてもらえるし、優しくしてあげること、不完全な自分たちを許しあって、温かさを与え合う。
普通に朝起きて夜寝られるだけで、幸せなんだ。
人生、人に対して新しい視点を得られて、ふ~っと、少しづつ、楽になった。


それから、これからのことを考え始めた。
海外に行ったときの解放感を思い出した。普段から、外国人と話すほうが自分を出せて楽だし、居心地がいいという自分の感覚に、素直に従ってみてもいいんじゃないかと思った。
「海外かぶれ」の見方をする人もいるだろうが、私は格好をつけるために言っているのではない。日本人の優しさや細やかな日本文化の美しさも好きだ。しかし、現実として、話して楽な相手の国籍が日本ではない、というただそれだけのことで、蔑みや優越は無い。
「海外で~をやりたいから行く!」とか、はっきりした目標なんてなかった。とりあえず、自分が幸せを感じるために、それを見つけるために出てもいいじゃん。幸いこの仕事はどこでもできる。日本でやりたいことがなくて、息苦しさを感じながら、「なんか違う」と悶々と生きるなら、出て、刺激を受けたり学ぶほうがいい。そして、ここに来た。


来て良かった。

鳥の声が聞こえる。
街並みは緑が多くて、ゆったりしたスペースがある。
リスやらウサギが駆けまわったり、何やら食べている姿。
すれ違いざまの笑顔の挨拶。
スーパーやバスの運転手との会話。
困った人を見つけたら、すぐに助ける自然な姿勢。
老いも若きも平等で、年齢による「すべき」がない。
やりたいことがあれば、いつからでもやっていい。
「でももう~歳だから」なんて考えがない。
意見を述べるとき、男性・年長者を立てなければという脅迫がない。
みんな同じ人間で、平等。
生き方の階段は一つではない。何でもいい。
自分のペースで歩けば良くて、疲れたり迷ったら、休めばいいし、違う道に変えてもいい。そこに、他人や世間のジャッジがない。
生き急がなくていい。
人生を楽しむことに積極的。
夢を見ている。


こんなことは、来る前からもわかっていた。
でも、実際に生活の中でそれを体感して、その文化の中で生きるというのは、やはり違う。
はじめて、私を私にさせてくれている。
私が私でいることに、外からの軽蔑がない。認められている。人生の解放感を味わっている。


もちろん、旅行と住むのは違うなと思う。
不便なこともあるし、ひどい態度をされることもある。でもそれは仕方ない。この国で私は外国人。こちらから相手に溶け込む努力が必要だし、住ませてもらっていることへの感謝があるし。


人生は、苦労多い物だと思う。どうせ同じ苦労をするなら、自分が住みたい場所で苦労するほうがいいんじゃないか。そう思っている。

 

 

 


もし、人生に閉塞していて、なにか自分が認められていないような苦しさや、生きることへの虚しさがあるなら、まずその自分を慰めて、労わっていい。
「ここまでよく頑張ってきた。」と言ってあげていい。傷ついたまま、どうにか生きてきた自分を休ませてあげたらいい。

漠然と、外国のほうが楽になれると感じているならば、素直にその気持ちに従って、とりあえず出てみるのは、いいことだと思う。
かっこいい理由なんかなくたって、いい。目的がなくて、いい。
幸せになりたいから、楽になりたいから、それだけで立派な理由だ。

否定意見を言う人は、少なからず嫉妬もしくは、”外国生活=遊んでくる”という勘違いをしているんだと思う。
自分を信じてあげていい。自分の人生だし。
もし、合わなかったら、すぐに帰国すればいい。「合わない」というのは決して「負け」ではなく「学べた」ということであって、人生の収穫になるはず。


長々書きすぎて、よくわからなくなってきた。
何が言いたいんだろ。
疲れているなら、休もう。じゅうぶんに、がんばってきた。
休んでいい。
幸せになっていい。









お構い無しの写真(撮影地カナダ)

そういえば、私のブログには文字しかなかったことに気づいた。

愛想ないな。

 

 

面倒だけど、これから写真を追加することにする。パソコンで書いてケータイで写真載せるって、世話が焼けるなぁ…。

 

写真とブログ記事内容の一致はしないことが多いだろう。あしからず。


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ちゃんとお墓に、入れられたい。

🐘書き終わった後に思ったことだが初めに書いておく。
 私のブログには、言わずもがな求められる謙虚さみたいの、ないよな。ま、いいや。


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一生、1人でいることを想像してみる。


幼少より今も1人でいることが大好きだ。
というより、人と会うと、疲れる。友達とお茶したり、どこかに出かけたりするのは、2,3か月に1回でも十分なほどだ。


大きく2つの理由が考えられる。
1つは、仕事だ。毎日多くの異国人とコミュニケーションが必須であり、集中して、注意深く、真摯な態度で傾聴し、向き合うことが求められている。それ故に、”話す”ということが疲れる。自分だけの世界に戻りたくなる。
2つ目は、もともとの性格だ。一匹狼で空想好き。どこかへ出かけるのも旅行するのも、1人のほうが楽しいし、疲れない。話したくなったら、旅先にいる人に声をかけて話せば足りる。開放的になれる。
(家族や心置けないパートナーは別。一緒でももちろん楽しい。)

 


昔、大好きなピアニスト、フジコヘミングのドキュメンタリーを見たときに思った。
この人は、私にどこか似ている所がある。(もちろん非凡な才能や努力家である部分は差し引いて。)
家の中のインテリアやファッションなど、大衆とは非なる独自のセンスを楽しんでいるところは特に。

私が好きな女性を他にも思い出してみる。
映画内のJulia Robertsが演じたErin Brokovich、同業の先輩女性たち、Sandra Bullock、など。
共通しているのは、みなさん、仕事や生き甲斐など、たくさんのやりたいを次々に実行、自由に国を跨ぐ。ルールなんか取っ払って、とりあえず邁進!あ、独身!…!
(”独身”という言葉だけで”残念”という負の何かを連想させるの、何なの?やだな。)


私も、やりたいことがたくさんある。
同年代で結婚、出産している人は多い。でも私が同じことをしたら、やりたいことはできなくなる。人生は全く違うものになるだろう。


子どもが欲しいと思ったことがない。正直に言ってしまえば、友だちの子供を見ても、何がかわいいのかわからない。もちろん、そんなことは口に出さず、「かわいいね」「大きくなったね」とか誰でも言いそうなことを言っておく。
周りで、「自分の子供が欲しい」とか「若いお母さんになりたい」というのを聞くと、全然理解できなくて、「世の中にはいろんな人がいるもんだな。」と思った。
相手も思ってるんだろうな。


「やはり、何か、子に関するものが違うのかも。」と更に強く思わせた経験がある。
都内で一時期、保育園でパートタイムをしたことがあった。
理由は、そのころ幼児教育と成人自律の関係に興味があって様々な本を読んでいるうちに、日本の場合どのように、保育士さんは子らに向き合っているのだろうかと、現場で学んでみたくなったからだ。


やってみると、向いてないなと思った。心底。
保育士さんは若い方がほとんどで、私とあまり変わらないような年齢だった。
がしかし、彼女・彼らは「やっぱりかわいいですよね~!」「あ!見ましたか?今、~ができるようになりました!」とか、子らの細かな反応に非常に感動していた。
一方の私は、喜びほぼゼロ。なんせ忙しすぎて、そこまで気が回らなかった。
でも、こういうのって気が回ったら喜べるとか、そんなことじゃないのよね。単純に、そういう心のセンサーみたいのが私はかなり弱いんだと思った。
(念のため書いておくが、勤務態度は真面目で、荒波も立てず、よく働いたと思う)



結婚、これはどうだろう。子を望まない場合、結婚が私に与えるものはなんだろう。
パートナーさへいれば、わざわざ籍を入れる必要があるのだろうか。
国際恋愛の場合、結婚しておくほうがビザなり、生きやすい特典は多い。しかし、お互い経済的に自立していて、1人でも十分生きていける経済的な力、その国での滞在許可があるなら、どうだろうか…。


「あ、でも、私、プロポーズされたい…。」
いきなり乙女チックな答えが頭に浮かぶ。自分でもたまげた。
そういう法的な手続きとか現実的な処理は置いといてね、
単純に、1人の男性から、「この女性と共に人生を歩みたい、誰よりも大切にしたい」って思われたいです。夢ぐらい、見たっていいじゃん。ぬほ~~


憧れる女性は9割以上がお1人の方だし、私もそんな生き方もいいなと思っている。
さて、これがもし、40代後半、50代、、、となったとき、果たしてどうだろうか。
寂しさを感じると思う。悲しみの強い寂しさだと思う。いろんな不安も大きくなるだろう。
特に、元来1人好きの私。数少ない友達とも更に会いにくくなっているだろう。


体調を崩したときに、手伝ってくれる人。家族を亡くした時に、抱きしめてくれる人、一緒にごはんを食べてくれる人、話を聞いてくれる人、ちょっとした言い合いができる人、たわいもないことで笑いあえる人。


年齢を重ねたら、もっとそんな相手が恋しくなるんじゃないか。
死んだときに、お葬式で祈られたいし、ちゃんとお墓に埋められたい。
(本音を言えば、世界の海に骨灰を撒かれたいけど違法だしな。お葬式はVRとかで、 国や地域を超えて友達や仕事仲間にオンラインで祈られたいな。参加費ゼロ。)



とかいって、やっぱり1人が楽しくて、なんとか楽しく生きていくのかもしれない。
はたまた、明日誰かに出会って、あれよあれよと結婚しているのかもしれない。
自分の子供がかわいくて仕方なくなっているのかもしれない。
人生ってわかんないね。



「私ね。今まで、子どもを持つことに興味が全くなかったの。でも、彼と出会って恋愛を始めたとき、”この人の子供を産みたい!”って思ったの。」
Evaが前にインタビューで言ってた言葉。夫はRyan G。
彼女の考えは、子を望む心理について初めて私を納得させた。


なるほど、じゃあ、Keanu Reeves か Jacob Collier と恋に落ちれたら、私も子供について考えられるんだね。
それ、楽しみに待ってて、いいのかな…。現世で待ち時間足りるのかしら。





そういえば、フジコヘミングの本が読みたいんだった。

 

なぜ日本のテレビで許されているのか。

🐇前回の長文ブログの途中部分からを切り取って編集して載せたのがこれ。
 ひとつのトピックだと思い、別にもう一度載せておくことにしたんだ。



私の視点や思考は、ある人にとっては共感され、ある人にとっては距離を置きたいと思われるようなものだ。
もしそれをここでしゃあしゃあと吐き書いたならば、万人ウケとか、国民的ブロガー、国民のブログみたいな物とは正反対の場所に置かれるものであろう。目指してもいないけど。
(”国民”って言葉、なんだか気持ちが悪いなぁ…およよ)

たぶん、私って面倒なんだろうなと理解している。そのくせ、共感されたい!いいって思われたい!とかいう感情はやっぱり心のどこかに鎮座。自分が理想とする女性像に近づきたいとも思っている。
あ~!非常に面倒な性格だよな。
昔から、「ちょっと変わってるね。」なんて言われていた。学校や友だちとの集団行動が本当に苦手だった。
隅々に蔓延る”伝統だから、ルールだから、年功序列だから、”というような常套句も呑み込めなかった。
特に女性の集まりや長い話。3人以上は無理だ。勘弁してくれ。

ま、私はこんな私が好きなんだけどさ。
もういちど言ってやろうじゃないか、私は、こんな私が好きだ!!!!うっほーー!
そして、今いるカナダやヨーロッパ、オーストラリアなどの文化圏では、怪訝に思われることもない。耳を傾けてくれる。自由に意見や考えを持てて、女性らしさが失われることもない、非常に心が解放されている。「私」がここにいる。


日本では私の意見や行動を見た人に「男っぽいね。勇ましいね。クールだな。」なんて言われて、まったく意味が分からなかった。
誤解を生まないように書いておくが、乱暴な言葉や言い回し、他者を傷つけるような言葉は使いたくない性格だ。反対意見のある時でも言葉選びを慎重にしている。(もっとも、対日本人の場合、私は滅多に自分の考えを話さないが。)
仕草や姿勢においても、祖母と母の躾もあって、男らしいものではないはずだ。服装にいたっては、運動服や男性服売り場にあるようなデザインの物を着てばかりでもない。おしゃれも好きだし女性の体形を楽しんでいる。

要するに、私は一人の人間として、平等に与えられている権利や合法のなかで、自分を生きているだけなのだ。
しかし、日本では”男性っぽい”と思われる。

「か弱く、はかなく、貴方の望みを叶えたもう従順な女性」が日本女性のロールモデルなのか?と私を疑わせている。
そんなもの、御伽噺のふわんふわんの”妖精”だ。夢の世界の理想像を現実の世界に生きる女性に充てがうなんて、勝手も甚だしい。
大和撫子”を2020年にもなって憧れの女性のタイプと言い続けるなんて…。1200年前の万葉集の言葉だぞ。おいおい…。
では我々女性も、「好きなタイプは、勇気があって強くて立派な益荒男です♡」なんて言って差し上げましょうかしらん。

「女性とは、かくあるべき」を潜在意識に埋め込もうとするような雑誌、SNS,広告やテレビ番組も恐ろしい。
体形やファッション、化粧、エステ、美容整形、躾や教育を担う親。
これらのトピックは大概が女性に向けられている。
性別によって分けられた外見や内面の理想の植え付け対象は、女性ばかりが圧倒的に多いことは気味が悪い。

テレビ番組で、女性アナウンサーに「また太りました?」とか「ちょっと太ったんじゃない?」なんて聞く男性。どうして許されるのだろうか。逆に「どうして美しい筋肉がないの?どうしてそんなに身長が低いの?」と男性諸君は言われてもいいのかしら。
近隣アジア、C・Kの男性にもこのようなタイプはいたが、それ以外の私が交流している欧米圏の男性は決して女性をそのように扱わない。それは男性自身の価値も下げる。裁判にもなり得る。

本人も笑って「やめてくださいよ」なんて言わないで、「非常に失礼で不愉快だ」とハッキリ伝えるほうがいいのでは。
それが無理なら、「あら!あなたこそ、どうして6パックが無いのですか?」なんて鋭いユーモアをくれてやっては?

テレビの中で許されてしまっていることは、現実世界でも許されるという残酷さがある。
「テレビ=常識」。言い換えれば「大衆の意見・風潮=全て善」という考えが日本人は非常に強いと思う。

世の中にある定義に対して、いったん立ち止まり個人の視点から観察、意見を持つという段階をぽっかり欠落させて、そのまんま受け取ってしまう。
義務教育の過程で、その訓練がされていないことが、現代の様々な生き辛さを生んでいることは明白だろう。残念だ。
肯定的には「ルールに従順な国民性」だ。しかしそれが既に悪意的に利用されていると、気付いている人は多くいると信じたい。


変人と言われることについて書き始めたら、こんなことまで飛んじゃった。
まあ、いっか!!
自由に思いをしゃらしゃらと書き流せるって、ものすごく気持ちがいいな~~~。
私はこんな私が大好きだ。
↑これを言うのって、爽快。足裏から頭の頂まで幸せが走り上がるぞ。
私は全然完璧な人間じゃないし、むしろ自分の理想に対しての足りなさが多い。
でも、こんな人間でも愛してあげよう。不完全を愛そう。
周りにも優しくなれる1つの心得だと思っている。




そういえば、日本で働いていたころ職場の男性に、皮肉にも「大和撫子ですよね。」って言われたな…。とんだ勘違いだ。
彼にとっては賛辞のつもり。私にとっては「どういうつもり?」。

 

 

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非常に面倒な性格の私だよな。長文だ、堪忍。

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暫くぶりのブログだ。

書いていなかった理由は
・書く暇と体力気力がなかった
・書きたいことが多すぎるゆえにまとまらなかった
・考えすぎた
・過去におもしろく読んでいた有名ブログ運営者に、過去の他ブログサイトの記事をパクられたことを思い出して嫌になった
以上。

特に、最後の理由は文字通り目が飛び出るほどたまげたことだった。
何より呆れたことは、盗作を指摘したらば、運営者は何の返事もせずに、ただその盗作記事を削除したことだ。
そのブロガーは、趣味ではなくブログで収入を得ている人であったので、記事を書く上でのモラルはあると思っていただけに、非常に残念であった。
”信頼”という文字が頭に出てきた。そのブログサイトを読みたくなくなった。

このブログでは封印しているが、私は自分の文章スタイルがある。
ここで書いているような「だ・である」調は、着飾っていないノーメイクの文体で好きではないが、時間がかからずサクサクと書けるため、溢れ出る思考をアウトプットするのにタイピングが追い付いてくれるという点が良しと思い使っている。

何のお導きかこのブログを読んでいる方には「え、この人の記事が盗作?普通のブログなのに?」と解せない表情が顔に張り付いているだろうが、これは私スタイルのブログではなく、あくまで、力を抜いて気楽にやっているものなのだ。



そんなこんなで、なんだかやるせない気持ちをぶらぶらと抱えていたらば、またもや前回から時間がひらけてしまった。
さすれば、なぜ今日書いているのか。
職場でベルギー男性Bは何気なく言った「自分の思想や考えが止まらないから、どこかで放出しないと。満帆になって破裂しそうだからさ。」podcastで自身のマイナーな趣味知識を語り倒すBだ。
非常に簡潔な言葉ではあるが、「あ、そっか別に、なんでもいいから自分を落ち着かせるために書いちゃえばいいんだ。」と気楽にさせた。

「自分の話に興味を持って傾聴してくれる人や時間を見つけることは難しいよね、自分が生きている生活世界でね。だから、YouTubePodcast,Instagramとかで、身近にいない共感者が見つけられたり、自分を理解してくれる人がいるというのは、ある意味、思考の発散と心のデトックスの一翼を担っているのかも。」と返すと、「あはは!僕にとっては二翼だよ。これがなかったら僕はどこにも飛べない。」ぱあっと口を開けて爽やかに笑いながら話すB。
いいなぁ。それでいいんだな。じゃあ、もう、書いちゃえ! そんな理由だ。



私の視点や思考は、ある人にとっては共感され、ある人にとっては距離を置きたいと思われるようなものだ。
もしそれをここでしゃあしゃあと吐き書いたならば、万人ウケとか、国民的ブロガー、国民のブログみたいな物とは正反対の場所に置かれるものであろう。目指してもいないけど。
(”国民”って言葉、なんだか気持ちが悪いなぁ…およよ)

たぶん、私って面倒なんだろうなと理解している。そのくせ、共感されたい!いいって思われたい!とかいう感情はやっぱり心のどこかに鎮座。
あ~!非常に面倒な性格だよな。
昔から、「ちょっと変わってるね。」なんて言われていた。学校や友だちとの集団行動が本当に苦手だった。特に女性の集まりや長い話。3人以上は無理だ。勘弁してくれ。”伝統だから、ルールだから、年功序列だから、”というような常套句を呑み込めなかった。

ま、私はこんな私が好きなんだけどさ。
もういちど言ってやろうじゃないか、私は、こんな私が好きだ!!!!うっほーー!
そして、今いるカナダやヨーロッパ、オーストラリアなどの文化圏では、怪訝に思われることもない。耳を傾けてくれる。自由に意見や考えを持てて、非常に心が解放されている。「私」がここにいる。


日本では私の意見や行動を見た人に「男っぽいね。勇ましいね。クールだな。」なんて言われて、まったく意味が分からなかった。
誤解を生まないように書いておくが、乱暴な言葉や言い回し、他者を傷つけるような言葉は使いたくない性格だ。反対意見のある時でも言葉選びを慎重にしている。(もっとも、対日本人の場合、私は滅多に自分の考えを話さないが。)
仕草や姿勢においても、祖母と母の躾もあって、男らしいものではないはずだ。服装にいたっては、運動服や男性服売り場にあるようなデザインの物を着てばかりでもない。おしゃれも好きだし女性の体形を楽しんでいる。

要するに、私は一人の人間として、平等に与えられている権利や合法のなかで、自分を生きているだけなのだ。
しかし、日本では”男性っぽい”と思われる。

「か弱く、はかなく、貴方の望みを叶えたもう従順な女性」が日本女性のロールモデルなのか?と私を疑わせている。
そんなもの、御伽噺のふわんふわんの”妖精”だ。夢の世界の理想像を現実の世界に生きる女性に充てがうなんて、勝手も甚だしい。
大和撫子”を2020年にもなって憧れの女性のタイプと言い続けるなんて…。1200年前の万葉集の言葉だぞ。おいおい…。
では我々女性も、「好きなタイプは、勇気があって強くて立派な益荒男です♡」なんて言って差し上げましょうかしらん。

「女性とは、かくあるべき」を潜在意識に埋め込もうとするような雑誌、SNS,広告やテレビ番組も恐ろしい。
体形やファッション、化粧、エステ、美容整形、躾や教育を担う親。
これらのトピックは大概が女性に向けられている。
性別によって分けられた外見や内面の理想の植え付け対象は、女性ばかりが圧倒的に多いことは気味が悪い。

テレビ番組で、女性アナウンサーに「また太りました?」とか「ちょっと太ったんじゃない?」なんて聞く男性。どうして許されるのだろうか。逆に「どうして美しい筋肉がないの?」と男性諸君は言われてもいいのかしら。
近隣アジア、C・Kの男性にもこのようなタイプはいたが、それ以外の私が交流している欧米圏の男性は決して女性をそのように扱わない。それは男性自身の価値を下げる。裁判にもなり得る。

本人も笑って「やめてくださいよ」なんて言わないで、「非常に失礼で不愉快だ」とハッキリ伝えるほうがいいのでは。それが無理なら、「あら!あなたこそ、どうして6パックが無いのですか?」なんて鋭いユーモアをくれてやっては?

テレビの中で許されてしまっていることは、現実世界でも許されるという残酷さがある。
「テレビ=常識」。言い換えれば「大衆の意見・風潮=全て善」という考えが日本人は非常に強いと思う。

世の中にある定義に対して、いったん立ち止まり個人の視点から観察、意見を持つという段階をぽっかり欠落させて、そのまんま受け取ってしまう。
義務教育の過程で、その訓練がされていないことが、現代の様々な生き辛さを生んでいることは明白だろう。残念だ。
肯定的には「ルールに従順な国民性」だ。しかしそれが既に悪意的に利用されていると、気付いている人は多くいると信じたい。


変人と言われることについて書き始めたら、こんなことまで飛んじゃった。
まあ、いっか!! 
自由に思いをしゃらしゃらと書き流せるって、ものすごく気持ちがいいな~~~。
私はこんな私が大好きだ!!
↑これを言うのって、爽快。足裏から頭の頂まで幸せが走り上がるぞ。




そういえば、日本で働いていたころ職場の男性に、皮肉にも「大和撫子ですよね。」って言われたな…。
彼にとっては賛辞のつもり。私にとっては「どういうつもり?」。

 

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