cheeky squirrel’s diary

隙あらば怠惰、夢見る臆病者、けれど人生を諦めたくない私の北米生活日記。むむぅ~!                                 🔦当サイト内の画像、文章などの無断転載及び複製などの行為は違法です。

ルンルン春!すんすん書く!

久しぶりに自分のブログをいくつか読み返してみたらば、文体や雰囲気がバラバラで、複数の人が書いてるみたいだなぁ。(もちろん1人ですよぉ)


ここ北米も、やっと春めいて私の心も前向きになり始めた。このルンルン気分のまますんすんと何か書いてみようではないか〜!るん!


トピックは、北米のいいな〜と思うところ。

ありきたりな話題だけれども、書いておくことはいいことだよな。外国生活が嫌になった時に見返したらいいだろう。


1. 景観が良いこと

ダウンタウンのお洒落エリアはもちろん、普通の住宅街がのほほんと、美しい。緑の芝生に花や木、可愛らしい置物などで飾られたフロントヤード、整備された歩道、それになぞるように生い茂る木々。歩くだけでも楽しくて、散歩やランニングに行きたくなる、またそれがしやすい町づくり。

車やファッションではなく、住まいにお金を使っている印象。


2. すぐそこにいる動物

りす、うさぎ、鳥いろいろは、外を歩けば窓から見れば玄関を開ければ、ほらそこに、いらっしゃる♡  見るだけで癒される、うほ〜 猫を散歩させてる人なんか見つけたら、誰が私を止められようか…!

カラスは滅多に見ないなぁ。


3. サービススタッフの友達迫り

「ハーイ、最近どう?今日何してたの?」から始まるレジスタッフとのやりとり。初期は「え?私たち友達でしたっけ?」と戸惑ったが、もう慣れたし、楽しい会話練習になる。「今日は朝からのシフトで大変!」とお客である私にも話す。ビジネススマイルや無表情の「いらっしゃいませー」より、こちらの人間全開の態度、いい!

(日本でクレーマーが多いのは、行き過ぎたお客様文化の代償だと思う。スタッフもお客も対等であり、お客もスタッフから評価される対象だよなぁ。)


4. すれ違う他人との挨拶

散歩中など、人とすれ違うときは笑顔で挨拶をする。他人でも!

思春期の若者は恥ずかしいのか、しないこともあるけれど、大人や子供はする。これはとってもいい文化よね〜 明るく挨拶すると、それだけで元気になるもんじゃ〜

多人種共存国家なので、いろいろな国の人と挨拶するだけでも、世界平和に触れた気になるもんじゃ〜 いいもんじゃのぉ、じいさんや


5. バスの人間景色

衛生面で言えば日本には到底およばんぜよ。しかし人間景色は心温まるものがあります。

高齢者や身体不自由者が乗車してくれば、誰もがすぐに席を立ち、彼らの補助をする。ヤンチャそうなお兄ちゃんでも、サッと立つんですよ。それだけであなたはイケメン!(心の声)

「今日あっついわね〜!」と誰かがぼやけば、突然始まる乗客同士の会話。

突然バスが止まったかと思えば、てくてくと、コンビニにポカリスエットを買いに行く運転手。誰も文句を言わないどころか、暑いから仕方ないよねという雰囲気。

バスに乗り込むや否や、「今日学校の授業でさ〜」とまるで家族に話すように運転手と話し出す中学生。運転しながらも続く2人の会話。

出発時間まで時間あるから、時間潰してて!と言い放ち、外でコーヒー飲みながら読書を始める運転手。

チケットを渡すと、それで手品を始める運転手。このおじさまは面白かったなぁ。


挙げればいろいろ出てくるなぁ、バス。人間的なコミュニケーション、好きよ!

私もバスではいろんな人にお世話になっていて、皆様の優しさに合掌〜。 

自論、バスの人間景色はその国の国民性をよく表す!


6.  年齢が必要なのは役所と病院のみ。

「何歳なの?」ここではあまり聞かれないし、「あの人って何歳なの?」と誰かに質問する人も見ない。60代でも70代.80.90代でも、明るく堂々と振る舞う姿勢、かっこいいなー!

日本ならば年齢によって、した方がいいことが決まっていて、それから外れると「問題児」のような扱い。そんな窮屈がここではゼロ!

何歳でも新しいことにチャレンジするし、結婚も恋愛も独身も、バリバリ楽しんでいる。

もう〜才だから無理だよ、なんて定型句を言う方がむしろ恥ずかしい、それを言い訳に諦めているほうがよっぽど悲しい人生! 

現地人を見て納得。


7.  人生を楽しむことが毎日の最優先!

仕事を疎かにすると言う意味ではなく。

休日もパソコンに向かって少し仕事をしていると、「もうやめなさい!仕事ばかりすると体に悪いよ!休日はあなたの人生を楽しんで、あなた自身を喜ばせないと!」と笑顔で背中を叩かれたとき、かるちゃーしょーーっく!

日本だと、「休日も仕事して偉いね!」だよなぁ。身を削って会社に奉仕する姿が尊い、そんな価値観と真逆。

平日でも夕にはパートナーと散歩したり、庭でゆっくりBBQしたり、ワイン飲みながら裏庭でホットバスに浸かる人々がたくさんいる。

ゆとりがありますなぁ〜。私も、仕事仕事!をやめた。ほんとに心が穏やかになったなぁ。



まだあるけれど、もう眠いしここまでにしやう。ルンルン気分ですんすんと書いて、とろとろ眠くなってきた〜  ねむりっ!


誇りですぞ!方言と訛り

朝から晩まで第二言語で話していると、「ん?私、だれ?」と、ときどき感じることがあります。


家族と話すとやはりホッとするんですね。そしてそれは方言の力も大きいと思うのです。


数年前帰省した時、驚いたことがありました。バスに乗っていると女子高校生のグループが前に座ったので、「今時の女子高生はどんなこと話すのかなぁ」なんて聞き耳を立てていると、なんとびっくり、東京弁が聞こえてきました。

まさか全員、東京からの転校生なのか?と疑いましたが、よくよく耳を澄ますと、地方の訛りと東京弁が入り混じった話し方。

衝撃のあまり、今時の女子高生の会話内容なんてどうでもよくなり、ただただ疑問と寂しさが残ったのを覚えています。


かくいう私も上京してからは東京弁を話していました。というのも、故郷の訛りは全国的にあまり知られていないマイナーなものなので、それを使って目立ちたくなかったんですね。

また、東京弁は整然としてシンプルなので、話もすんすんと前に進みますし、そこで相手が聞き慣れない方言を使って、困惑停止させたくないことも大きな理由です。

大阪弁や京都弁、博多弁のような有名な方言でしたら、もしかするとそのまま継続していたかもしれません。事実、そちらの出身の方は東京でもそのままお話しされる方が多いように思います。


やはり方言はいいもんだなぁ、と思わせることの一つに、方言特有の温かさ、優しさが挙げられますね。

随分前になりますが、成人式のために帰省して、久しぶりにクラスメートの何人かと食事をしたときでした。「疲れたら、いつでも帰ってきていいんだよ」と、地元の訛りで男の子から言われたとき、方言の持つ包容力がしっかりと都会で冷え切った私の心を抱きしめて、半分恋に落ちるくらいのものでした。 これは東京弁では絶対に醸し出せない男性の優しさだよなぁ。しみじみと、故郷の優しさに触れたひと時でした。


方言と訛りに和やかな雰囲気を感じるのは日本人だけではないことにも驚きです。

私が地方出身であることを外国人に話すと、「方言はありますか?」と興味津々に聞いてくる人が意外にもかなり多いこと。

「方言はどこか柔らかい感じがして、日本人らしいです。アイデンティティの一つだと思うし、話者が少なくなるのは残念です。」と言った人まで。

自分の生活スタイルには東京弁のほうが合っているのですが、地元の言葉は子供の頃からの第一言語ですし、なるほど、アイデンティティと訛りは、切り離せないものだよなぁと考えさせられます。



地元の人と話すときは方言を話すと決めているのですが、以前あった奇妙な現象。

何人かの女性と話したときですが、地元を出た人は私のみで、そのほか全員は地元に住んでいる方たちというメンバーでした。100%方言を話していたのは私だけで、他の皆さんは東京弁を使っていたのですね…

なぜ方言を話さないのか聞きたかったのですが、何やらそれは聞いてくれるなという雰囲気でしたので控えました。

なんだか、都会的に振る舞おうと無理して格好つけているようですし、そんな話し方をされると、弱さも見せながら心置きなく会話する関係にはなれないのでは?と、心配になりました。



どのような話し方をしようかは個人の自由ですし、だから方言を使えなどとは思わないのですが、方言や訛りが田舎っぽくて嫌だという価値観があったならば、それは非常に残念なことだと思うのです。



第一言語が、特別な温もりを持った方言や訛りであることに、もっと誇りを持ってもいいのではないでしょうか〜。

異性の心をイチコロに!異文化交流のスパイスに!


迂闊に信じてはいけないような謳い文句になってしまいました。

おしまいです。



まだ東京に住んでるの? (未来)

タイトルから批判を買いそうな文字を並べてしまった…。

「まだ東京に住んでるの?」
遠くない未来、これは一般的な考えになるのではと思っている。

高層ビルがところ狭しに並び、走る地下鉄は血管のよう、最新で一流の物に溢れ、それに魅せられる人も溢れかえっているというまさに先進国を絵に描いたような街。

思春期の頃の私も多くの地方若者と同様に、都会に憧れていて、大学は当然のように東京に行くと決め、実際にそうなった。
(東京に憧れた理由として、モダンな街並みや便利な生活というのはありましたが、「話し方がテキパキとしていて、物事が効率よく進みそう。」というのが一番大きな理由でしたね。職場には素敵な女性の先輩が多く、これもありがたいことでした。)

やはり東京は魅力的で、一流の海外アーティストのライブに行けたり、文化芸術の面でも十分に楽しませてもらった。
質の高さをどこまでも追い求めようと努力する勤勉な日本人のなせる技が凝縮されたTOKYOは、たまげたもんです。

私はずっと東京で生きていくのかな~なんて思っていた時期もあったが、仕事と外国での生活によって、この考えに変化が訪れた。

東京は、言うまでもなく基本的な生活費が高い、高すぎる。さらに貼られまくる広告は見ている人のお財布事情に関係なく、次々と新しい商品を宣伝してくれて、またそれを買おうと思えばすぐに買えてしまう!という慈悲の欠片もない消費システムが、流行に敏感な東京人を取り巻き、お財布の紐をゆるゆるにさせる。
物をガンガン買って、バンバンと消費することが、東京の幸せを象徴するみたいだ。日々を楽しむためにお金を払う街、東京。

しかし行き着く先は、東京人も緑あふれる自然であったり、ゆったりと寛げる広いスペース、人間的な温かいコミュニケーションを生活に望んでいるような様子が、けっこう滑稽に見えることもある。


普通の幸せを手に入れるために、朝晩と満員の通勤電車にイライラしながら必死に働くのは、大変なことだよなぁ…。

パリに行ったとき、建築や街づくりの麗しさにはうっとりと溜息だったが、騒音とタバコと強すぎる香水がそこら中に漂っていて、人も冷たい感じだし、早く田舎に帰りたいなぁと思った。一緒にいたフランス人も「パリに住むフランス人は正気じゃない」と言っていて、そんなものかと思った。


こちら北米では、全然お金を使わない。純粋な生活費以外ほとんどお財布を開いていないですね、そういえば。服や化粧品も半年に1度thrift shop で買うので足りるし、出かける先も丘や川、湖、山の中なので0円。東京のように最先端のものは少ないけれど、自然の美しさや、時間と空間、そして心のゆとりがある。

現地人も、ダウンタウンには住みたがらず、山に近いほど人気で、住宅賃金が高くなる。皆さん自然に囲まれて暮らしたいようです。


日本の地方でも、こんな生活ができるのだから、もし私が日本に住む機会があれば是非とも地方に行きたいと思う。国際空港に近いところだと、尚更いいですね。

普通の幸せを、お金をかけずに手に入れたい。貧乏根性丸出しにしております。


外国人にとっても、東京は観光地として人気だけれど、どこが一番好きだったかと聞くと、北海道、京都、奈良、金沢、福岡など地方都市を答える人が私の周りでは9割を超える。「東京は近代的ですごいけど、疲れます。日本の田園風景は素晴らしいです。そして、優しい日本人がいます。」と、やはり古き良き日本が彼らに感動を与えるようで、普通の中に美しさを見出しているように思える。

(高級ブティックやお洒落な自撮りなどを目指して来られる方はやはり東京が一番な様子。東アジアの方が多くて、これも面白い現象です。)


また長々としてしまいました。

普通の幸せを手に入れるためには、地方でも十分で、それは世界共通の感覚なのかもしれません。



SNSやらで、大都会はやはりキラキラとしていて、そこでの暮らしはさぞ楽しかろうと錯覚してしまうけれど、キラキラは一瞬ですね。その一瞬のために、けっこうなお金を払わないといけないって、しあわせのコスパが良いとは言えません。

(個人差が大きいですけれども。)


30年以内に首都圏に巨大地震が発生する確率は70%を超えたという研究発表もありましたし、恐ろしいです。



都会に住むことがステータスという価値観は、いつまで続くのかなぁ。



バレンタインデーは、お花とカードをいただきました。おぉ〜

おしまいです。

いろいろと浮いてしまう私…

今思うと、物心ついた頃から周囲の人と話すのが心地いいと思えなかった。

疲れてしまって、1人でいる方が楽な故に、休みの日に誘いがあってもなんとか断り、1人で好きにどこかへ行ったり、家で本やら映画やらで寛ぐことが多かった。


疲れる理由として、相手が興味のある物や話題が自分のそれらとは異なっていて、全然楽しくないこと。さらに、表面上は「へ〜、そうなんだ。」と温和な聞き役に徹っして学校社会を潜り抜けようと、当時の自分なりに無理に空気を読んでいたからだと思われる。


反対に、年上の方とお話しするのは大好きで、塾の先生や家に来られるお客さんなどにはすぐに懐いて、幼い自分よりも知識、経験、世界も広い彼らの話を聞くことが楽しかった。


コミュニケーションが上手じゃないと、外国で生活するのは難しいだろうと、多くの方が思われるのではないか。

私は基本的に、いわゆるコミュ障の部類に入る人物で、日本の方とお話しする際にはこの特性を思う存分発揮してしまう。


しかし、外国語で話す際、私は非常に開放的になり、精神的に「疲れる」ことが無い。もちろん、うまく伝えられないもどかしさや、自分の言語力に嘆くことはあるけれども、人間同士の疲れが無い。

これは本当に素晴らしい事で、こちらで生活する良さの大きな一つだと思っている。


おそらく、こちらの言語的そして文化的な特性が、私を本来の私にさせてくれていると感じる。

自分の意見をはっきり言ったり、感動をすぐに言葉に出したり、褒め言葉をすぐに相手に伝えても、不思議がられない。

日本にいた頃は、「よくそんなにハッキリ言えるね」「そんなドラマチックに表現するの、やめて。」「そんなことないよ〜(照れ隠し)」と返されて、投げたボールが拾われない会話だった。

(意見は言うけれど、相手を傷つけるような中傷ではない。)


そんな私なので、友達は非常に少なく、1人を除いて他全ては外国人という、日本の方にはコミュ障発揮を裏付ける国籍の割合になっている。



何が言いたいかというと、

現在の日本で評価されるコミュニケーション能力の高さに関わらず、希望がある限り、どなたでも国外に出て空気を吸ってみるのは、なかなか大きな人生転換になるのではないでしょうか。


受け入れられていない、自分を出せない、何か生きにくい思いを抱えている、けれども外国にポジティブな興味があるという方は、今のご自身の日本社会からの評価などお気になさらずに、とりあえず国外に出てみてもいいかもしれません。



毎回、何か書きたいことがあって書いているわけではないブログなので、話の始まりと終わりが滅裂になっているかもしれません。

そして今日はいつもの文体を封印して、さらさらと綴っただけのものになっています。

おわりです。

いでよ!ピュアなわたし!

最近の記事は、毒づいたものが多いなぁ。

記事だけから想像する私の人間像って、好印象と対極にあるんだろうな。

ま、いいや〜 普段は大人しくしているぶん、ここでは思いの丈を書きっぱなしているのさ。


冬が長くて心も暗くなりがちな最近。

There is always sun behind clouds! 明るくいくため、未来の予定を書いておくことにする!

どんなに不可能に思える希望でも、強く願い続けると叶うことを信じている。

今までも有り難いことに、周りから無理だと言われたことも、少しずつ叶っている。

もちろん努力も必要だけど、希望を見失わずにいることが、1番大切なことだ!

・NYに行く

・西アメリカで生活する(Santa Monicaなど )

・ユタで解放. 自然

カンボジアインドネシアシンガポール

・ドイツにもう一度。サイクリング

・西ヨーロッパに滞在(友人を訪ねながら)

ポルトガル、スイス、ベルギー、オランダ

・punch needles 

・仕事のYouTube、漫画

・昭和アイドル曲のYouTube 森高千里など

・ネコ触りまくる

・自分の部屋を自分の好きなもので一杯にする

・納得できる場所なら家賃を払う 

・ダンス

・読書 辻さん、再度カフカ、ちびまるこちゃん  未映子さん 町田さん

・健康的な運動、食事

・おしゃれ思う存分

・オーストラリア横断

・愛しのブリスベン滞在

・ひとり洋ドラマ台詞プレイ

・Machu Picchu

・実家掃除手伝い

・考え過ぎない。ゆったり、軽く、なんとかなるさ。

・奈良

・きなこねじり

・塩豆大福

グルテンフリーのおいしいお煎餅をJさんに送る

フリーランス継続のために、平均収入を上げて安定させる道を見つける。

・感謝する自分でいる

・家族、友達、周りの人をもっと大切にする

・家族と友達と、もっと思い出を作る

・自分の感覚を大切にする。

グルテンフリーのベイキングもっと。



とりあえず、こんなもんかなぁ。

思い出したら追記するかな、うむ。


楽しいなぁ。これが叶うと思うと、ワクワクするぞ!足りないところは、努力!

私、れっつらご〜


超正統派、この言葉に親近感ない?

最近、何かと記事にされているウルトラオーソドックス、ユダヤ教の超正統派。


黒い帽子にスーツ、切ってしまいたくさせる煩わしく長すぎるもみあげ。男性の彼らの外見から、なんだか異世界の異様な雰囲気が漂っている。

初めて見たときは、ファンタジー映画の薄気味悪いキャラクターかと思ったものだ。現代にも続いている宗派が定めている服装と知って、たまげた。


決まりやタブーの細かさ多さ。

産めよ増やせよ」、神の命令の下、避難は禁止。魚は豊穣のシンボルゆえに魚を食べた日には子どもを作らなければいけない。子ども人数が6人以上は普通。

これだけを養える家庭経済力があるのかと疑えば、男性の仕事は経典の研究のみ、女性は働きに出る。なぜなら、女性は男性より頭が弱く、経典を深く理解できないから…。

インターネットは生活を滅ぼす物として禁止。ネットを使わない仕事なんて、現代にいくつ残っているだろう。減少するだけだ。



女性が身も心も虐げられ、快楽に溺れたい男性が楽に生きるための都合の良い宗教…と、私の目には映る。

これを、ウルトラオーソドックスって…真正面からよくこんな言葉を並べられたよなぁ。

宗教問題が少ない比較的発展している国で生きてきた私の正直な感想だ。

宗教は個人の自由であるし、非難する気持ちはないけれども、同じ女性として無理がありありな感じ、大丈夫なの⁈ 



こんな宗教が、現代まで続けられている様子を見ると、洗脳の恐ろしさを感じる。

外から見て明らかに正しくない、人権を侵害する行為でも、属する家族、コミュニティが、これは正しい、神に通じる清く幸福な行いだと、子がお腹にいるときから言い聞かせ、外を見させず、内の世界で育てたならば、いとも簡単に、自然に、その世界を信じ込ませることができる。


彼らの宗教、暮らし方などについて読むと、微かに親近感が湧いている自分に気付く。

もちろん、好意的な親近感ではなく、同じような負の経験を持つ物としてのそれだ。


周りと異なる意見は嫌厭。女性は控えめな大和撫子がモテ!なんだかんだといって家事ができる女性が崇められ、(男性は家事ができると女性の倍も崇められるという謎、不公平)、男女平等社会なんていう割に、テレビ番組では男女の古くさい役割ががはっきりしているキャラクターばかり。女性アナウンサーの弱々しい困り眉に、揃いも揃ってキャンキャン的なキャピキャピ〜な女子〜な服装。試験の正答例は1つだけ。卒業後は大学、就職、結婚、出産、見せてくれよな孫の顔!


宗教こそないけれど、「超正統派」を唯一の正答例としてる日本、同じじゃない?


私はこれを、教科書宗教と名付けたい。


日本人は、ルールを守ることに特化した国民性だと思う。

教科書は、人生のガイダンス本みたいだ。

人生で初めて、全員が共通して国から与えられる本であり、学校という社会組織で使われる最重要本、バイブルだ。そこからテストが作られ、個人の成績もつけられる。

教科書は、国のトップが命令して作ったもので、それを使って教えるのは目の前に立つ先生という我々を横一列に並ばせ優劣をつける存在。

先生にいかに気に入られ、教科書通りに正しく学び、好成績を収めるか。それから、高校入試、大学入試、就職試験とクリアしていかねばならない。いかねばならない!学校、教師、親、社会、みんなが認める成績で!、彼らが自慢できるような成績で!これはルール、社会のルール!


プライベートでは、雑誌やテレビが教科書だ。学校では教えてくれないことが山ほどある。

ファッション、モテ、だれが尊敬され、だれが軽蔑されるか、何をすることが恥になり、失敗になるか、悪口を言われる対象にならないため、世間の価値観下で生きる術。


残念なことに、教科書文化では、学校試験同様、人間像にもバラエティはなく、正答例は男女とも1つのように思う。

大変よくできました💮の花丸ハンコがもらえるロールモデルは、女性ならば女子アナウンサー なんだろう。これからもずーっと。

お勉強もがんばって、メイクもファッションも、ちゃあんと雑誌をお手本に、か弱そうな眉毛をもって、男性もたてられちゃう!ね、これが好きなんでしょう?これで正解なんでしょう?


男性はなまるロールモデルは省略。

女子って…この呼び方も気持ち悪いよな。


( 楠田さんみたいな女性アナウンサー、もう現れないのかなぁ。凛としてて、優しくて強い。センスのあるファッションで、男性と対等に向かう姿勢。)



教科書文化、にっぽん!

超正統派推進、にっぽん!





わぁ。こわいなぁ…



締まりのない文章に憤慨を潜めてみる

疲れている。

吐き出したいから、ここに書くことにする。

 

日本在住の日本人友達と連絡を取らなければいけないときがあった。同じタイミングで複数名。これが始まりだ。

 

もともと、私は友達が少ない。浅く広くではなく、狭く深く関係を築くタイプだ。

今回連絡をもらった友達は、その中でも、関係が希薄になりつつある人たち。

そのような人には、基本的に私は自分の話をしないようにしている。聞き役に徹する。

 

しかし、今回彼女らの質問から逃げきれず、外国にいることを言わざるを得なくなってしまった。

国内にいるって、何となしに ぼやかしておけばよかったと後悔した。

 

「えー!すごーい!かっこいー!」×5(棒読み)

「じゃあ、英語はぺらぺらなんだ?」

「いつ日本に帰ってくるの?これからどうするの?仕事は?」

 

苛つきを通り越して、あまりの無神経なコメントに驚愕。どうして平気でこんなことを言うのだろうか。

私が相手の立場なら、絶対に聞かない。聞かれた相手は不愉快な思いをすると容易に想像できる。何より、それを聞いて何になるんだろう? 
仮に私が、
「結婚したんだ。じゃあ、子供はいつ産むの?」
「仕事のキャリア目標は?」「じゃあ、あなたはその外国語がどの程度できるの?」と聞いたら、どう思うのだろうか。
こんな意地悪な質問…おそろしい。
他にもっと、話すことないのか。

 

相手の気持ちを想像するという配慮をしない同年代の友達に、呆れた。残念だった。

もう、帰国する場合も、他国に行く場合も、連絡するのはやめようと、決めた。

 

これらの質問の影には、

・私が完璧な英語を話してくれるな。

・私が華やかな人生を歩んでくれるな。

という嫉妬と嫉みを伴った相手の願望が見えて、私を嫌な気にさせる。

 

正面から答える必要がないので、静かにさせるために

「全然喋れないし、未来は全然わかりません。」というテキトーな返事をしておいた。

 

本音を言えば、

「あなた達よりは、ぺらぺら話せますよ。努力してます。全然話せなかったら、ここで1人で今まで生きてこれたわけないでしょう?」

 

だけれど、国外で1人で旅行をしたこともなければ、まして1人で国外生活したことがない人に、声を荒げても無駄だ。

外国生活=華やか という方式しか頭にない人たちと横に並んでお話ししようということが、そもそも無理なんだ。
(※国外に出たことがない人を見下しているという意味は全くない。私はそのような価値観の人間ではない。)

 

 

メッセージ交換から、どう姿を晦まそうかと、やるきのない顔でケータイを眺めていると、同居人に心配そうな視線を向けられた。

訳を話すと、

「わーお。それ、完全に嫉妬だね。忘れたらいいよ。彼女たちは、自分たちが幸せじゃないんでしょう。

そんな嫉妬心剥き出しの質問は、質問者の価値を下げるだけなのにね。

これは不思議だけど、日本人は、白人圏の国に移住した日本人に対して、すごく厳しいように思う。

他のアジアだと、みんな助け合おうとしてるよね。ま、そのコミュニティが強すぎる延長に、現地人と馴染めずに孤立するという代償もあるわけだけど…。

 

同居人は欧州の北国に遠い祖先に持つカナディアン。

仕事で世界各国に赴任していたので、アジア人のパーソナリティや文化の違いも、よく見て、よく知ってきている。

 

 

共感してくれる人がいる、というのは、なんといいことだろう。

わかるよ、と言ってくれるだけで、すーっと救われる。

無駄なことに大切な感情を使うのはやめようと、冷静になれる。

 

これって、誰の人生?

私の人生だ。私の人生を作るのは、私だ。

 

私には、有難いことに、温かい人が周りにいる。

外国でも、こうやって生きてこれている。

 

もしかるすと、彼女らには母国であってもそんな人がいないのかもしれない。

いつまでも他人の人生と比べて、不満を募らせているみたいだ。
異端な私は格好の餌食なのだろう。

 

どうせ、私は彼女らに今後会うことはない。

考えるのは、やめよう。

祈るのが、健全だな。相手が幸せになるように、祈っていよう。